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内 観 の す す め
青山学院大学
石 井 光
まえがき
私はこの二〇数年間、多くの方々に内観を勧め、私の勧めで五百人以上の人が内観を体験されました。内観に行った動機はさまざまで、緊急の悩みを抱えて行った人達もたくさんいます。そのほとんどすべての人達から、内観終了後の感想を聞かせていただき、そしてその後も多くの方と親しく数年間、あるいは二〇数年間おつきあいさせていただいてきました。それらの人々に接するごとに、内観が如何に悩みの解決に絶大な力を発揮し、その後の人生の糧になっていくかということを目のあたりにさせていただいております。
そのような貴重な体験を少しでも多くの人々に味わっていただき、悩みからも解放されていただきたいと願っております。本書をきっかけに一人でも多くの方が内観を体験していただければこれに勝る喜びはありません。
時間を止めて
私たちは、自分の人生を止めて自分自身を見つめる時間をほとんど持っていません。自分が何のために生まれ、どこからきて、どこに向っているのかもわからずに忙しく動いています。行き先を考える暇もないし、行き先がわかっていないということにすら気づいていない場合が多いのです。ひたすら先を急いでいて道端のタンポポにも気がつかないというような生活になっていないでしょうか。
そして、それが悩みの根本になっている場合が多いようです。目の前のことで頭がいっぱいで、視野が狭くなっているのです。事業に失敗したり、受験に失敗したりして自殺をする人がいますが、その人にとっては、事業の成功か死か、合格か死かというただ二つの選択しかなくなってしまっているのです。
そのような時に自分の人生の全体をふりかえり、今までまわりの方々がどのようなことをしてくださった結果今の自分が存在するのかが本当にわかれば、もっと広い視野に立って目の前の問題を見ることができるようになります。そうすれば、そのような狭い選択にはならないでしょう。
ですから、ちょっと時間を止めて、自分の過去から現在までをふりかえり、今まで自分がどういう人間であったのかということをきちんと見つめてみるということが大事ではないかと思います。
ただし、私たちが過去をふりかえるときは、自分が当時、興味をもって見たものや、そのとき感じた感情をもう一度たどっているだけということが多いのです。それでは、あくまでも自分の側から見たふりかえり方にしかなりません。私たちの人生を船に乗って川上から川下へ下っていく旅に例えると、私たちが通常過去をふりかえるのは、船の上から自分の興味を持って見たことを、その時の感情と共にふりかえっているようなものです。あそこはきれいだった、あの流れを進むのは楽しかった、あの場所はちょっと危なくて怖かった等、自分にとって印象深かったことを思い出していきます。そのようなものの見方ではなくて、船に乗って下って行く自分を上空や岸から撮り続けたビデオを初めから見てみるというような見方の方が、自分の姿がはっきりとわかってくるでしょう。どういう場面でどこに座って何をしていたか、というようなことを冷静に観察することが出来るからです。そのように、他の角度から見て自分がどうであったかということを、過去から現在まで冷静にふりかえって見ることが大事なのではないでしょうか。
人生の時間を止めて、過去から現在までを別の角度からふりかえる。それがこれからご紹介する「内観」です。
先入観からの解放
私たちは先入観でものを見ていることが多いのです。空は青い、黒板は黒いというのは私たちの先入観であって、事実ではありません。空の色が本当に私たちがイメ-ジする様な青さなのは年に数回しかありません。白みがかった色をしていることが多いですし、夕やけもあります。夜になればまた違う色です。それにもかかわらず私たちは空は青い、青くなければ空でないというような思い方をして、むしろこちらの先入観に相手を合わせようとしています。自分が勝手につけたタイトル・評価でまわりを見、こちらの期待とのギャップだけを見て、そして相手がこちらの先入観や期待に合わないと怒るのです。母親のくせに、父親のくせに、子供のくせに、夫のくせに、妻のくせに、社長のくせに、先生のくせに……皆同じです。相手のことを自分を満足させる道具としてしか見ていないのです。
そしていったん相手を自分の基準で評価してしまうと、その部分しか見えないことが多いのです。いったん嫌いになると、その人が自分に親切にしてくれても、何かしていただいたとは思えないわけです。いったん意地悪な人だと思うと、その人の意地悪なところだけをさがすのです。
第一、はじめの評価がすでに自己中心的です。相手が、自分に親切だといい人だと思ったり、その人がよその人にもっと親切にしているといやな奴だと思ったり、遠足の日に雨が降ると嫌がるけれど、一か月も雨が降らないと雨乞いをする。私たちはそのようなものの見方をしがちだからです。
ようするに、常に自分の都合で、自分自身のフィルターを通してものが見えており、それにともなう感情が自分の記憶として残っていくのです。
これは自分自身を見るときも同じです。私もよくやりますが、約束の時間に遅れると「すみません。道が混んでいたもので」と言い訳する。でも、私の住んでいる東京の道路はいつも混んでいます。「いやあ、ラッシュでしたので」というのも本当は言い訳にはなりません。ラッシュの時間はいつも同じです。それを計算して家を出れば遅くならずにすんだはずですし、ラッシュだということに家を出てから気づいたとすればそれはこちらの不注意と言わざるを得ません。
仮に、交通事故で電車が止まってしまって遅れたとしても、事故がありましてと言えば「それは大変でしたね」と同情してもらえます。しかし、本当はそのことは、やきもきしながら待っていた人には関係ないのです。何か起こったのだろうか、待ち合わせ場所を間違えたのだろうか等と心配しながら、待っていなければならなかった人は実はもっと大変だったという事実は変りません。ところが私たちはこのことを見逃しがちです。
このように、私たちは、自分がなんらかの形で相手に迷惑をかけても、常に自分なりの言い訳を持っていることが多いのです。「ちょっと、出がけに電話が鳴りまして」「いやー、最近忙しくて」「ちょっとこのところ過労気味で」「子供が受験なものですから」……。
だから、相手から見た自分は、自分が勝手にかなり甘く評価している自分とは、かなりギャップがあるわけです。そのギャップに苦しんで、人は自分をわかってくれないと言ったりするのですが、本当は人はかなりこちらのことをわかっているのです。人からみれば一目であの人はちょっと頑固そうだなとか暗いなとわかるのですが、本人だけが気がついていないわけです。それなのに、人が自分を理解してくれないといってストレスをためたり、そのストレスから病気になったりするわけです。ですから、別の角度から、いつもの自分の感情中心のものの見方と違った見方で自分を見てみることが大事になってくるのです。
内観とは何か
これから紹介する内観は、そのような一方的なものの見方から離れて別の角度から自分を見る方法です。内観とは文字通り「内を観る」ことです。「内面の観察」です。私たちは通常は自分の都合でものを見ていますから、「外観」をしているのです。「外観」をしているから自分が見えてこないのです。ですから、そのようなものの見方から離れて自分を見つめる「内観」が大切になってくるのです。ようするに私たちにとって内観が大切なのは、私たちが通常「内観」をしていないからです。だから一度時間をとって、自分自身をふりかえってみるということが大事なのではないかと思います。
3つの質問
それでは内観のやり方を紹介しましょう。
内観は自分がまわりの人に対してどうだったかということを、その人から、「していただいたこと」「お返ししたこと」「迷惑をかけたこと」という三つの質問で調べます。
何もしてもらってないのにお返しというのはおかしいと思う人は、「してさしあげたこと」でもいいでしょう。
まわりの人というのは、自分の最も身近な人、例えば母親、父親、祖父母、兄弟姉妹、配偶者、子供等です。
それをその人との出会いから現在まで、あるいは別れまでを、過去から現在にさかのぼって調べていくのです。
普通は初めに調べるのは、お母さんに対する自分です。母親は大抵の場合、子供のときに最も身近にいて世話になった人だからです。もちろん、お母さんがその頃同居していなかったという人はおばあさん、あるいはお父さん、お姉さんといった人から始めます。そして期間は例えば生れてから小学校三年生まで、小学校卒業まで、中学時代、二〇才まで、二五才まで、三〇才まで……というふうに調べていきます。
ですから、普通は、生れてから小学校低学年までに
1 母親からしていただいたこと
2 母親にして返したこと
3 母親に迷惑をかけたこと
から初めます。
集中内観では、一週間にわたって、この質問に取組みます。そして一時間から二時間に一度、面接の先生が内観をしている人のところに来て、今の時間どのようなことを調べ、思い出したかを尋ねます。内観者はこれら三つの質問について、どのようなことを思い出したかを報告します。すると面接者はお礼を言って、次にいつの時代を調べるかを聞き、あるいはいつからいつまでを調べるようにとアドバイスをして去っていきます。そしてまた一~二時間程したら内観者を尋ねて、こんどはどのようなことを思い出したかを尋ねます。このようにして一週間の間、ずっと三つの質問に取組んで自分を調べていく、これが集中内観です。
それではこの3つの質問の意味を考えてみましょう。
していただいたこと
私たちが通常考えているのは、「してもらわなかったこと」が多いのです。お母さんが家にいなかった、ごはんを作ってくれなかった、お父さんが私たちをおいて出ていってしまった、私の親は早く死んでしまった等、自分が期待どおりにしてもらえなかったこと、あるいは失ったと思っていることに心が集中して、自分がしていただいたこと、あるいは得ていることに気がついていないことが多いわけです。
「してもらわなかったこと」というのは空想の世界です。アメリカに留学させてもらえなかったということで親を恨んでいる人がいます。家を建ててもらわなかったとか、世界一周旅行をさせてくれなかったといい始めたらきりがありません。それはこちらが勝手に作った期待を親が満たしてくれなかった、こちらの期待通りにやってくれなかったということであって、あくまでもこちらの頭の中での出来事です。お弁当を作ってくれなかったとか朝起こしてくれなかったというのも全く同じです。内観は自分の頭の中の出来事を調べるのでなくて、実際に起こった事実を調べるのです。
お母さんからしていただいたことというのを調べても、特別のことはありませんと言う人が多いのですが、内観は「特別のこと」を調べるのではありません。例えば、お母さんからしてもらったことは何ですかと言われて、朝起こしてもらいましたとか食事を作ってもらいましたということを言う人は非常に少ない。風邪をひいて熱を出した時に夜寝ずの看病をしてくださったというようなことは、してもらったこととして覚えているのですが、ご飯をよそってくれたとか、お味噌汁を作ってもらったというのは見逃してしまっています。よそのおばさんが一回だけ食事を作ってくれたらお礼を言うのに、母親に食事を作ってもらってもあたりまえのように思っているので作ってもらっていること自体に気づきません。
しかし、一日三回食事を用意していただきますと、一年間で一千食、一〇年間で一万食を越えます。雨の日も風の日も、買い物に出かけてやおやさんや魚屋さん、スーパーマーケット等を回って、いろいろなものをお金を出して買い、その相当重い品物を家まで運び、洗ったり切ったりした後、煮たり、焼いたり、揚げたりして料理を作ってお皿に乗せ、一方で御飯を炊いてお茶碗に盛り、お湯を沸かしてお茶を入れてそれを湯飲みにつぐ、そうやって用意したおかずと御飯に飲み物をお盆に乗せて食卓に運んで並べ、さらに箸も食卓に並べていく。子供が食べ終わって遊びに行ったり、勉強部屋にこもると、残された食器をまたお盆に乗せて台所に運び、それを洗って拭いてもとの食器棚に戻していく。これを一万回というのは相当時間も手間もかかるのですが、これを「特別のこと」ではないと思って「していただいたこと」にいれてなかったりするのです。私のお母さんは私が一〇才の時に家を出ていってしまいました。だから私はお母さんには何の世話にもなっていませんという方がいますが、これはかなり事実に反します。家を出るまではお母さんが食事を作っていてくれたならば、すでにお母さんは私のために一万回の食事の用意をしてくれたということになります。それにもかかわらず何もしてもらってないと思うわけです。だから改めてきちんと過去の事実を見てみる必要があるのです。
食事を作ってもらっても、私たちが覚えているのは、それがうまかったとかまずかった、あれは好きだった嫌いだった、お母さんは料理が上手だの下手だの、こういうことが多いのです。料理の好き嫌い、上手下手はこちらの評価にすぎません。自分にとってはまずくても、他の兄弟にとってはおいしかったかもしれません。評価は人によって違うのです。
うちのお母さんは料理が嫌いだといって文句を言う人もいますが、お母さんが料理を好きでなくてはいけないという決まりはありません。お母さんが本当に料理が嫌いだとしたら、嫌いなことを一万回も自分がさせてきたということになります。お母さんに、嫌いなことを一万回もさせて、文句を言いながらあたりまえのように食べて自分がここまで生きてこれたという事実。この事実に気づいていくということが大事なのです。食事をとることができなければ人間は生きられないのです。
私たちは、よそのおじさんからお年玉をもらうと喜びますが、自分のお父さんからもらうと足りないといって文句を言う。もらった分は使っておいて、足りないと、うちの親はケチだといって不満に思ったりします。
お母さんはいつも家にいてくれたけれどお父さんは働いていてちっとも家にいなかったと父親を責める人がいますが、お父さんが働かずにずっと家にいたら一家が食べていけません。その場合はお母さんが外に出なくてはならなかったでしょう。お父さんが外で働いてくれたからこそ、お母さんはいつも家にいることができたのです。
公園に連れて行ってもらって、砂場で遊んでいる間、お母さんはベンチに座っていた。これはその頃はしていただいたこととは思っていないのですが、後でふりかえってみると、なるほどあの時お母さんは自分のために炎天下一時間もベンチに座っていたんだなということがわかると思います。何かあったらすぐに飛んで来れる所に座っていたわけですが、何もなかったのでただ座っていただけのように見えているわけです。そのお母さんを時々ちらっと見て、そこにお母さんがいると安心してまた遊びが続けられた。いなければ心配で遊びに集中できなかったかもしれません。ですから改めてふりかえってみてはじめて、実は自分のためにそうやって座っていていただいたのだということに気づくのです。
私のゼミの学生で、内観からの帰りの電車の中でカブト虫の入ったカゴをもって立っている少年を見て、自分も昔カブト虫を飼っていたことを思い出すと同時に、カブト虫にスイカなどの餌をやったのは自分だとずっと思っていたけれど、よくよく考えてみると餌がスイカだと教えてくれたのも親だし、スイカを切ってくれたのも親で、自分のやったことはお膳立ての整った餌をカブト虫に置いてあげただけだったということに気づいた人がいます。このようにあらためて考えてみると、実はたくさんのことをしていただいていたということに気づきます。逆に内観のような機会を持たないと永久に気がつかないままになってしまうのです。
また、よく考えてみると、自分が小学校時代のお母さんというのは今の自分の年齢よりも若かったりします。それでもそのことに気づいていない、その年齢ならば今の自分と照らし合わせてみても仕方がないと思えるようなことでも、お母さんは昔からパ-フェクトな人間のように思っていて、こちらの期待通りでない部分を許さないのです。
だから改めて、事実をきちんと見ることによって、自分がどのようにして生かされてきたかということがわかるのです。
お返ししたこと
お返ししたこと、あるいはしてさしあげたこと、これも非常に厳しい質問です。私たちはしてもらうことばかり考えていて、あまりしてあげるということを考えていない場合が多いのです。例えば自分がお母さんに何をしてあげたかということはなかなか出てきません。
私はあまり手がかからなかったという人がいますが、自分のことは自分でしたというのはしてあげたことにはなりません。第一、自分の服を自分で着られるようになる前は、着せてもらっていたわけですし、自分で着られるように教えていただいてもいるわけです。手がかからないように育てるには相当手がかかっているのです。
していただいたこととして、結構自分は成績が良かったとか、運動会で一等賞になって喜ばせたとか、こういうことをいう人がたくさんいます。しかしこれはお母さんのために勉強したわけではないし、お母さんのために走ったわけでもありません。みんなに負けたくないと思って走ったら一等になって、お母さんが我がことのように喜んでくださったわけです。お母さんにいいことがあったときに心から喜んであげれば、それはしてあげたことになると思いますが、お母さんが我がことのように喜んでくださったというのはしていただいたことになってしまいます。あくまでも、お母さんのためにしてあげたことでなければ、たまたま自分にいいことがあったというだけでは、してあげたことにはならないと思います。
道端にきれいな小石があったので、それを拾って帰ってお母さんにプレゼントをしようとしたら怒られたというような場合もあるでしょうが、お母さんを喜ばせようと思って石を持っていってあげたならば、これはしてさしあげたことになります。お母さんが喜んだことだけがしてあげたことではないのです。それは逆にこちらが喜んだことだけが、してもらったことでないと同じです。歯医者さんに連れて行ってもらったことを喜ぶ人はあまりいません。逆に恨んでいる人もいます。しかし、これはやはりこちらのことを思って、それ以上痛くならないようにと一生懸命お母さんが連れていってくださったわけです。
迷惑をかけたこと
次は「迷惑をかけたこと」ですが、私たちは「迷惑をかけられたこと」を覚えていることが多いのです。自分が迷惑をかけられたと思っている、あるいは自分が傷ついたというような記憶はなかなか忘れないのですが、自分が迷惑をかけたということは、かけている時点で気がついていない、あるいは、気がついてもすぐに忘れてしまったりするわけです。それでかけられたことを20年、30年と覚えていて、自分が被害者になってしまい、私が不幸せなのはあの人のせいだというものの見方になってしまったりします。それでは、自分の人生を主体的に生きているとはいえません。ですから、改めて自分はどういう迷惑をかけたかということを考えてみる。これが3つ目の質問になります。
内観とは何かということを一言で言えば、自分が他の人から、していただいたこと、してあげたこと、迷惑をかけたこと、この3つの質問に取り組んで自分を見つめる作業です。もっとも、調べる対象は必ずしも人とは限りません。飼い犬に対して内観をして、自分が如何に自分勝手に犬と接してきたかに気づいた人もいます。自分が寂しい時は寝ている犬を起こして遊び相手になってもらい、機嫌の悪いときは犬にあたったというのです。
内観では初めはお母さん、あるいはお母さんがわりで身の回りの世話をしてくださった人に対して、過去から現在まで、あるいはその方が亡くなるまでの自分を3~5年位ずつの期限を切って調べます。それが終わったらお父さんに対してどうであったか、あるいは祖父母、兄弟姉妹、配偶者、子供に対してどうであったか、学校の先生、会社の上司、同僚に対してはどうかというように考えていくのです。
「山のあなたの空遠く」というカ-ル・ブッセの詩があります、「幸い住むと人の言う、ああ我、人ととめゆきて、涙さしぐみ帰り来ぬ。山のあなたのなお遠く、幸い住むと人の言う」というものです。幸せを求めて遠くまで行ったけれども、涙ながらに帰ってきた。幸せはもっと遠くにあるのだと言って、結局この人は幸せになっていないわけです。これに対して、中国の詩で、こういう詩があります。「尽日春を尋ねて春を見ず」一日中春を尋ねたけれども見つからなかった。「草鞋踏む遍しろうとうの雲」わらじを一足履き潰して帰ってきた、そこまでは同じです。「帰路たまたま過ぐ梅花の下」帰ってきたらたまたま梅の花の下を通ったのです。自分の家の庭だったのかも知れません。「春は枝頭にあってすでに十分」という歌です。状況は同じ、やったことも同じだけれども結果は全然違うわけです。この自分の家の庭の枝頭の梅一輪をさがす、気づいていく、これが内観で行うことであると考えていいと思います。自分の幸せに気づく作業です。
内観で思い出すこと
それでは内観で具体的にどのようなことを思い出すのでしょうか。
内観で思い出すことは例えば次のようなことです。
小学校低学年まで、母に対して、「していただいたことは、仕事を休んで、遠足に来てくれました。朝早く起きて、その日のお弁当を作ってくれました。 お返しは、よく肩を叩いてあげました。
迷惑をかけたこと、幼稚園のときおたふく風邪にかかり一週間くらい治らず、心配させました」
これは初日です。初めはなかなか集中出来ませんし、思い出すことも表面的なことになります。しかし、三~四日目になると、だんだんと細かいことを思い出してきます。お母さん、お父さんとひととおりの内観を終わり、三日目に再びお母さんに対して調べている方の例です。
「幼稚園の運動会に来てくれました。
遠足の日の朝、寒いといけないので長袖を着せてくれました。
学芸会で着る白いセ-タ-、タイツを仕事から帰って来て、また買いに行ってくれました。
お返しは、幼稚園で作った紙粘土のブロ-チを母にプレゼントしました。
母の絵を書いてあげました。
迷惑は、夜中にトイレに行きたくて目が覚めた時、母はぐっすり寝ているにもかかわらず、よく起こしてしまいました」
さらに続けるといろいろなことを思い出します。
「していただいたことは、爪切り用の鋏で爪を切ってもらったことです。
幼稚園の頃『私のワンピ-ス』というお気に入りの絵本があり、よく読んでもらっていました。
風邪をひいて、駅前のK小児科に連れていってくれたことがあります。
血液型の検査を受けるため、病院に連れていってもらいました。注射で我慢して泣かなかったので母がほめてくれました」
このようにしてずっと続いていきます。
さらに詳しく調べると「就学時検診の日、仕事を休んで一緒にきてくれました」
仕事を休んでというのが入ってます。
「小学校に入学する前、一人で学校に行けるように、小学校まで通学路を通っていってくれたことがあります」初めに一回学校まで一緒に行ってくれたわけです。
「補助輪付きの自転車を買ってもらいました。私は補助輪付きの自転車に乗り母は歩きで家まで連れて帰ってくれました」とても細かいことに気づいています。
「幼稚園の運動会で親のリレ-に参加してくれました。
絵本を買いに行った帰り、お菓子やさんでお団子を食べさせてくれました。母の分のお団子を一本分けてくれました。
幼稚園のプ-ルで浮輪の上に私を座らせて遊ばせてくれました。
夏に空気入れで幼児用のプ-ルを膨らませ、家の庭でプ-ルに入れて遊ばせてくれました。そのとき青と白の水着を着せてもらいました。
台風で夜中凄い風の音がしていて怖くなり、母の布団に入れてもらいました」 お母さんの布団の温もりがもう感じられているようです。
悩みの解決
以上、内観の意味とやり方についてお話ししてまいりましたが、では内観で何が起こり、なぜ悩みが解決するのかということを簡単にお話しさせていただきたいと思います。
内観によって気づくこと、内観によって得られることは、人によって全くちがいます。ですから、内観で何を得ることができるかは、やってみなくてはわかりません。
しかし、具体的に何が得られるかは別として、内観をするとどういうことが起こるかということは、ある程度ご説明できると思います。
内観をすると、まず、あらゆる意味で、とらわれから解放されます。
過去の事実を認めず、あれはなかったことにしたいと思っている人がいます。しかし、過去を否定しているということは、その結果である現在の自分を否定することになります。内観でその事実を別の角度から見ることは、事実を受け入れることを容易にします。そしてその事実を受け入れることによって、過去から解放されていくのです。
そういう意味では、恨みもとらわれの一種でしょう。何かが自分の思うようにならなかったときに相手を恨み、自分が苦しむのです。内観をすることによって、恨みから解放される人はたくさんいます。少なくとも起こった事実を認めることができるようになるのです。
相手を変えようとして悩んでいる人がいます。自分の基準で相手を評価し、相手を自分の基準に合わせようとして苦しむのです。思いやりのない人に向かって、思いやりがないからけしからんというのは、非常に思いやりがないのです。犬に向かって猫でないからけしからんといっているようなものです。お母さんがアルコ-ル依存症で、してもらったことが何も思い出せないという方がドイツにおられました。しかし四日目五日目になってやっと思い出したのは、お母さんが酔っ払いながら、御飯を作っていた姿です。その後していただいたことをたくさん思い出しました。酔っ払っていないお母さんにしてもらったことを探すからなかなか見つからないわけです。酔っ払いながらいろいろのことをしてもらい、育て上げてもらったのです。その方が一週間の内観を終わって気づいたことは、私の母親はアルコ-ル依存症であったということです。そんなことは初めから理屈ではわかっているのですが、依存症の母が私を二〇年間育ててくれたということに初めて本当に気づいたのです。
自分自身を認めない場合もあります。私はもっとましだということにとらわれて、事実を見ていないのです。そうすると自己嫌悪になったり、悪い意味での罪悪感に陥ったり、劣等感を持ったりするわけですが、事実存在しない「もっとましな」自分を基準においたまま、事実をかいま見て、それを受け入れない時にそのような状態になるわけです。内観で見えてくる自分というのは事実存在する自分ですから、もっとましな、空想の自分というのがなくなっていくわけです。それによって自分と、自分はこうであるはずであるというものとの差がなくなっていきますから、自己嫌悪とか、劣等感とか、悪い意味の罪悪感とか、「感」というものから解放されるわけです。
内観で事実を見るということはそれらのとらわれから解放されて自由になるということです。
そして、内観で自分が得ているものを集めれば集めるほど、一言で言えば幸せになっていきます。ドイツの精神分析家のアルミン・モーリッヒ氏が、精神分析を受けても病気は治るかもしれないが幸せにはならない、だから内観を取り入れていかないと精神分析に未来はないと言われていますが、内観は初めから幸せになる方向でものを考えていると言っていいと思います。ですから、一言で言えば、内観は「幸せへの道」であると言えるでしょう。
今、自分が幸せかどうかということは、本人が決めることですから、それは本人が今を幸せと感じるかどうかという問題になります。内観でしていただいたことを調べることは、幸せの証拠を集めていることにほかなりません。だから内観は、「幸せの宝捜し」です。内観をすることによって、内観をした本人が幸せになっていく。それが内観です。
それだけではありません。一人の人が内観をすると周りに非常に大きな影響があります。自分が幸せになればまわりの人を幸せにしていくこともできます。自分が不幸せで暗い顔をしていたり、不満でいっぱいでまわりにあたっていたりしたら、まわりの人を不快にすることになります。
また、何かをひきずったままでいると、それが自分の後に続くものに引き継がれていくこともあるのです。
ある方は、子供の頃学校から帰るとお母さんがすぐ横に座って宿題をさせられた、お習字の練習とか色々させられてとっても嫌だったといいます。成績は一番だったし、お習字はいつも張り出されていたし、ソロバンは学校で一番だったのですが、お母さんを恨んでいた。自分の子にはこういう思いはさせまいと思い、自分の娘さんには何もしなかったら、娘さんの小学校の先生から呼び出されて、あなたのお嬢さんは学校の授業についていけないと言われたそうです。このお嬢さんが大きくなって、もしお母さんになったときに、今度は、うちのお母さんは何もしてくれなかったと言って、一生懸命子供の勉強を見るのではないかと思います。そうすると、代々これが続いていく。だれも本当に子どものためにはやっていないわけです。どこかで誰かが切らないと、それがずっと続いていくことになります。ですから、一人の人が内観をするということは、周りに、そして後の世代までにも非常に大きな影響を及ぼすといえるでしょう。
以上述べてまいりましたように、内観をすることによって、私たちは多くの貴重な気づきを得ることができます。それらの気づきによって、悩みをもたらしている状況を今までとはちがう角度からとらえることができるようになり、さまざまな悩みから解放されていくのです。
内観によって悩みが解決するだけでなく、多くの心因性の病気が治ることがあります。また、内観はアルコール依存症や摂食障害の治療にも効果を発揮します。そのため、内観は心理療法としても注目を集め、内観療法として使われています。
現在では日本内観学会が毎年一回開催され、内観による治療の効果などについて研究が重ねられてきています。一九九一年からは三年に一回内観国際会議が開かれるようにもなりました。今では欧米を中心に諸外国で一週間の内観研修会が開催されるようになり、欧米の心理学者や精神科のお医者さんも内観に注目しています。
欧米で伝統的に行われている心理療法や精神療法はどちらかというと過去の「感情」に焦点をあわせ、しかも迷惑をかけられたことを強調するのに対し、内観は過去の「事実」に焦点を合わせ、していただいたことや迷惑をかけたことを調べていくため、欧米の心理療法の限界を超えるものとして注目されているのです。
内観Q&A
ここまで内観の説明をしてきましたが、内観に関して、次のような質問をよく受けますので、お答えします。
いつも反省をしているので内観をする必要がない
私はいつも反省しているし日記もつけているから、内観のようなことはやっていますという方がいます。しかし反省と内観は違います。特に深い反省は別として、普通私たちが反省という場合は、何か結果がまずかったときにどこが悪かったかといって反省することが多いのです。しかし内観の「迷惑をかけたこと」というのは、結果が良い悪いの問題ではありません。
一年間受験勉強を一生懸命しましたというのもまわり中に迷惑をかけています。夜中まで起きている。家の手伝いもしない。いつもイライラしている。家族はテレビの音も加減したり、見たいテレビも見ないで我慢している。その結果、合格すると、受かってやったみたいに威張りくさる。不合格だと、自分が悲劇の主人公みたいに一人でおちこんでいる。
この場合、勉強ばかりやっていたということ自体はあまり「反省」の対ฉ |